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2chなどでの今話題の女優さん俳優さん、アイドルグループ、芸人さんなど多数芸能ニュースをまとめて紹介しております。

    2023年11月

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    お笑いトリオ安田大サーカスクロちゃん(46歳)が、11月27日に放送されたバラエティ番組「クロナダル」(テレビ朝日系)に出演。千鳥・ノブがミーハーすぎて「ダサい!」と語った。


    スター過ぎて周りが何も言えなくなってしまった芸能人に、安田大サーカスクロちゃんコロコロチキチキペッパーズナダルがさらに爆売れするための改善案を考える「スターを勝手に爆売れプロデュース!」という企画が行われた。

    千鳥がまず取り上げられ、後で怒られないために、最初は「方言がすごくて、それでいてスタイリッシュな感じにできているのは今までいない」「スキャンダルがあっても関係ない。面白さで圧倒している」と褒めちぎる2人だが、クロちゃんは「ノブさんがさ、気になっていて。ノブさんがダサい!(佐藤)健君と仲がいいってめちゃめちゃ言ってるじゃんか。今みたいにガッてきてない時に言うならいいと思うけれど、今は行ききってるじゃん。言う事によって逆に損する事も出てくると思うの。相手に言われてナンボなのに自分から言うのはちょっとね、仕事減りそうな気がする。ノブさんがミーハーすぎる」と指摘した。
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    (出典 news.nicovideo.jp)


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     11月25日SnowMan・目黒蓮が「第15回TAMA映画賞」授賞式に登壇した。表彰式にて目黒は、映画で共演した今田美桜への想いを語ったという。

    「目黒は今回、映画『わたしの幸せな結婚』と『月の満ち欠け』で最優秀新進男優賞を受賞。その舞台上で目黒は、『わた婚』で共演した今田について『印象として華やかな方なのかなと思っていたのですが、初めてお芝居をしたときにキャラクター悲壮感というか、すごい表現されていてやりやすかったし、僕も役に没頭することができたなと感謝しています』と語りました」(芸能記者)

     そんな目黒と今田が共演した「わた婚」は今年、恋愛映画として大ヒットし、2人のカップルファンも多く生まれた。それだけにネットでは続編を望む声も相次いでいるが、様々な問題が立ちはだかっているという。

    「『フライデーデジタル』は11月25日、東宝が旧ジャニーズ所属タレントを起用しない方針を固めたと報じました。目黒が出演した『わたしの〜』は東宝配給だったことで、続編に暗雲が垂れ込めているのです。そんな中、旧ジャニの新事務所へ残留するとも噂される木村拓哉の発言が話題に。11月26日放送のラジオ番組『木村拓哉 Flow』(TOKYO FM)の中で、木村は13日の自身の誕生日振り返り、1番最初に祝福メールを送ってきたのがSnowMan・目黒だったと明かしました。木村と目黒といえば、2021年放送のドラマ『教場Ⅱ』(フジテレビ系)で共演。当時、目黒は木村について『芸能界のトップを走られている方なので、お芝居についてどんなことを意識されているのかなどできる限り聞いて、勉強したいと思っています』と熱く語ったことで、2人は師弟関係にあるとも言われています。それだけに東宝の旧ジャニーズ拒否報道に対し、一部目黒ファンからは『木村くんとの関係もあるし、新事務所エージェント契約するのかな』『退所しないと「わた婚」の続編がないなら、厳しい選択を迫られそう』と今後の動向に注目が集まっています」(前出・芸能記者)

     俳優活動に重きを置く岡田准一、二宮和也生田斗真らは、早々に旧ジャニーズからの独立を発表した。はたして目黒は、どんな道を選ぶのだろうか。

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    アサジョ


    (出典 news.nicovideo.jp)


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     きょう11月28日、俳優の松平健が70歳の誕生日を迎えた。折しも松平が歌って踊る「マツケンサンバⅡ」が再びブームとなっている。今回のブームは、彼が2020年に開設した公式YouTubeチャンネルに同曲のミュージックビデオを投稿して以降、TikTokなどSNSを通じて若い世代から人気を呼んだことで火がついたとされる。一昨年、東京オリンピックの開会式が行われた際には“「マツケンサンバ」待望論”がSNS上で巻き起こり、松平はその年のNHK紅白歌合戦に17年ぶりに出場し、特別企画としてこの曲を披露した。

     今年に入ってからも、曲とコラボレーションしたカフェ「ビバ~マツケンサンバⅡ ワールドカフェ~オレ!」が東京の渋谷パルコに期間限定でオープンするも、入場に必要な事前整理券が発売2日で完売したため急遽会期が延長されるほどの盛況ぶりを見せる。これには当の松平も、同カフェ開催にあたっての取材会で「なんでこんなになっちゃったのか不思議」と首をひねった。

    ヒット曲が誕生するまで

    マツケンサンバⅡ」の誕生はじつに29年前、1994年までさかのぼる。もともとは「松平健 大阪新歌舞伎座十月公演 〔唄う絵草紙〕」と題する和風レビューショーフィナーレを飾る曲としてつくられた。和風レビューショーとは、オーケストラの演奏に合わせ、松平がダンサーたちと和装で踊るショーである。このときの公演は、第1部が松平の代表作である時代劇暴れん坊将軍』の舞台版で、第2部がレビューショーという構成であった。

     松平が座長を務める舞台公演ではそれ以前より、観客に笑顔で帰ってもらうため、ショーフィナーレには第1部のお芝居の出演者も全員再登場し、「松健音頭」「マツケンマンボ」といったにぎやかな曲を披露してきた。「マツケンサンバⅡ」は、タイトルどおり初代「マツケンサンバ」のパート2との位置づけで、ショーの楽曲すべてを任された作曲家の宮川彬良が手がけた。宮川によれば、吉峯暁子(当時、OSK日本歌劇団の座付作家・演出家)による詞がFAXで送られてきたとき、一読してすぐ、メロディーをメモ書きすることもなく、最初から最後まで一気に歌えたという(宮川彬良『「アキラさん」は音楽を楽しむ天才』NHK出版、2022年)。

     1994年に初披露されるや「マツケンサンバⅡ」は好評を博し、翌年の公演で新たな曲を宮川がつくっても、次の年のフィナーレにはまた返り咲くほど根強い人気を得た。振付や衣装も年を追うごとに派手なものになっていく。振付に関しては、1998年アメリカ公演に際し、振付師の真島茂樹を迎えて一新された。真島はもともと日劇ダンシングチームトップダンサーで、松平とは旧知の仲だった。松平は久々に真島と再会したとき、彼が数年前から日本舞踊を始めたと知って、それなら着物のさばきもわかっているだろうと思い、振付を頼んだという。

    アメリカでも大好評

     アメリカ公演の振付とあって真島は、松平が腰を大きく振ったりと、意図的に派手なものにした。これについて本人は《あんなに腰を振らされて(笑)。「これはちょっと恥ずかしいなあ」って言っても、「いいの!」って言われてね》と語っている(『SPA!』2004年9月21日号)。ただし、真島の見たところでは、松平は《「おれ、腰なんか振っちゃうの?」/なんて言いながら、誰よりも激しく腰を振っていました。クイッなんてね。思わず「ちょっと派手に振りすぎです!」って言っちゃったもの》と、乗り乗りであったようだが(真島茂樹踊り子魂』KKベストセラーズ2009年)。

     真島の狙いは見事当たり、「マツケンサンバⅡ」はアメリカでも大好評で、曲の後半では観客が立ち上がって一緒に踊ったという。松平たちは帰国後、同曲の振付は今後もこれで行くと決めた。

     衣装は「マツケンマンボ」のときからラメの生地による光り物の着物だったが、「マツケンサンバ」でスパンコールの生地に変わった。そのうちに生地を松平が海外に行ったとき自ら選んで買ってくるというこだわりようであった。

    レコード会社にCDリリースを断られ…

    マツケンサンバⅡ」がファンのあいだで定着すると、CDがほしいとの声が上がった。これを受けて松平はレコード会社に持ちかけるも、断られてしまう。そこで自主制作したCDを公演会場限定で発売したところ評判を呼び、一旦は断念したレコード会社からのCDリリースが実現した。一方で、名古屋の新聞社や放送局に勤める4人の女性たちが「マツケンサンバを紅白に出そう」と目標を掲げ、ラジオ番組で曲をかけてもらったり、紙面で紹介したり地道に宣伝活動をしてくれた。そのおかげもあって、2004年、ついに「マツケンサンバⅡ」は大ヒットし、松平は紅白出場を果たしたのだった。

     ちょうどこの前年、2003年には25年間続いた『暴れん坊将軍』のレギュラー放送が突如として終了していた。主演の松平は個人事務所を経営するだけに、社員を路頭に迷わせるわけにはいかない。そのため、すぐ収入になるディナーショーを始めたり、それまで「将軍」のイメージを崩さないためやってこなかった汚れ役に挑んだり、バラエティ番組にも出演したりと、あらゆる手を尽くした。そこへ来ての「マツケンサンバⅡ」のヒットは、「将軍」とは違う彼のイメージ一気に世間に広めたという点で、松平の再スタートを後押しすることになったともいえる。

     俳優としても、紅白初出場と前後して2004年暮れまでの3ヵ月間、ドラマ忠臣蔵』で主役の大石内蔵助を演じたのに続き、翌年の大河ドラマ『義経』では武蔵坊弁慶に扮し、存在感を示した。

    憧れは石原裕次郎

     そもそも松平が俳優を志したのは、地元・愛知県豊橋市の高校を中退して名古屋駅前の寿司屋で働いていたころ、当時の大スター石原裕次郎主演の映画『太平洋ひとりぼっち』を観て感動したのがきっかけだった。石原は中学時代から憧れの存在であったが、このとき初めて弟子入りして俳優になろうと思い立つ。家族が反対するなか、母親だけが唯一応援してくれ、かなりの額のお小遣いを渡して東京へ送り出してくれた。

     結局、弟子入りは石原の事務所が新人を募集していなかったためかなわなかったものの、新聞で団員を募集していた「劇団フジ」に入り、アルバイトで生計を立てながら俳優修業を積む。入団3年目には劇団公演で主役を張るまでになった。「松平健」の芸名はこのころに出演したドラマプロデューサーがつけてくれたものだという。

     転機が訪れたのは4年目、20歳のときだった。劇団の作家の紹介で、俳優の勝新太郎と出会ったのだ。勝から会うなり「おまえ、京都に来れるか」と訊かれたので「はい」と即答する。それからというもの3ヵ月ほど、あてがわれたホテルから撮影所に通いながら、勝の演技や、現場での作法などを見て学んだ。

    勝新太郎が怒鳴ったわけ

     半年後には劇団を辞めて、勝が監督を務めるドラマ『座頭市物語』(1975年)で本格的に俳優デビューする。その制作発表に際し、勝をマスコミの記者たちが囲んでの食事会に同席すると、突然、勝が「松平!」と怒鳴り出した。当人にはさっぱり理由がわからなかったが、あとから「これでみんなおまえの名前を覚えただろう」と言われ、師の思いやりに気づかされる。

     このあと、1976年には昼の帯ドラマ『人間の條件』で初めて主演を務めたが、その後1年ほど、大河ドラマ『花神』(1977年)に出演したのを例外として、ほとんど仕事をしなかった。それも勝が「主役以外やるな。いま、脇役の仕事をすれば元の木阿弥だぞ」との方針により出演依頼を断っていたからだ。この間、松平は給料をもらいながら、歌舞伎や舞台を見るなどして勉強に励んだ。

     同時期には、舞台『天守物語』の主演の坂東玉三郎の相手役を選ぶオーディションで最終選考まで残ったものの、結局、落ちてしまった。しかし、それを伝える新聞記事を見た東映のプロデューサーから、新たに始まるテレビ時代劇の主演のオファーを受ける。主演に決まっていた大物俳優が降板したので、新人で行きたいという。この時代劇こそ『暴れん坊将軍』であった。

    23歳の若さで主演に抜擢

    暴れん坊将軍』がスタートしたのは1978年1月。撮影開始は前年の11月中旬で、松平はまだ23歳だった。彼が演じる将軍・徳川吉宗は、毎回、江戸市中に出かけては、旗本の三男坊「徳田新之助」を名乗って人々と交流しながら、江戸にはびこる悪を成敗するという役どころだ。役のうえでは将軍とはいえ、脇を有島一郎や北島三郎といったベテランたちが固めており、最初のころは撮影現場で出番を待つあいだもとても座っていられなかったという。

    暴れん坊将軍』が始まると、師匠の勝に「おまえは将軍なんだからいい店で飲め。そこでお客さんがどういう遊び方をしているか勉強しろ」とアドバイスされる。松平はこれをさっそく実践し、銀座のクラブなどへ身銭を切って通った。結局、金銭的に苦しくなって2ヵ月ほどしか続けられなかったが、自信はつき、役づくりに活かすことができたという。

     周囲では当初、番組は「3ヵ月で終わる」との声もあったが、松平はそれに闘志をかき立てられ踏ん張った。1年目こそ視聴率は2桁に達しなかったものの、2年目の1979年NHK大河ドラマ草燃える』で松平が準主役の北条義時を演じるのを見て、初めて彼を知った人たちが新たに視聴者についたこともあり、人気番組となっていく。

    将軍吉宗は「僕の分身」

     俳優・松平健としては、将軍吉宗とともに自分も成長していったという感覚があるようだ。最近のインタビューでは、吉宗について《僕の分身ですね。ずっと一緒に歳を重ね、成長してきたという実感があります。20代、30代、40代、50代と、その年代ごとの吉宗を演じてきましたし、今の自分が演じられる吉宗像もあると思うんです。機会があれば、ぜひもう一度やってみたいですね》と語り、なおもこの役に思い入れを抱いているとうかがわせた(『隔週刊 暴れん坊将軍DVDコレクション』Vol.2、デアゴスティーニ・ジャパン2023年)。

     勝新太郎の弟子への思い入れも終生変わらず、松平が34歳のとき初めてミュージカル『王様と私』に主演したときには、舞台稽古に立ち会いながら、サングラス越しに涙を拭いていたかと思うと、あとで楽屋に来て「ダメ出し、ないよ。よかったね」と声をかけてくれ、彼を感激させた(『婦人公論』2004年10月7日号)。

     かと思えば、その後、松平が30代後半頃には「おまえ、目が死んでるぞ!」と一喝されたこともあったという。その瞬間には、師匠が何を言わんとしているのかわからず、《それから、自分でもどこが死んでるのか考えました。悩みましたよ。あとから考えれば、満足してるんじゃないのかってことですかね。好奇心に燃えてないっていう。平和で目から鋭さが消えていたのかな。自分にそのつもりはなくても、知らない間にぬるま湯に浸かっていたかなと、それ以降、自分に厳しくなりました》と、のちに語っている(『BIG tomorrow2005年4月号)。

    70歳でも果敢にチャレンジ

     その師の教えは、『暴れん坊将軍』終了後、必死になって新たな仕事を見つけようとしたときにも活かされたに違いない。このときのさまざまな挑戦は、現在も「マツケンサンバⅡ」をめぐる一連の展開にまでつながっている。その根底にあるのは、人々に楽しんでほしいという、松平が俳優として培ってきたサービス精神だろう。目下、大阪を皮切りに各地で公演中の舞台『西遊記』では牛魔王の役で、立ち回りを宙吊りで演じるなど、70歳を迎えてもなお果敢なチャレンジを続けている。

    (近藤 正高)

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    松平健 ©文藝春秋


    (出典 news.nicovideo.jp)


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    ●俳優業への思いや『君花』前後の変化を明かす
    11月21日よりTBSの深夜ドラマ枠「ドラマストリーム」で放送中の『恋愛のすゝめ』(毎週火曜24:58~25:28 ※放送日によって放送時間が異なる)で連続ドラマ単独初主演を務める俳優の綱啓永にインタビュー2018年に俳優デビューしてから5年経った今の俳優業への思いや転機、本作への思いなど話を聞いた。

    ――2017年に「ジュノン・スーパーボーイコンテスト」でグランプリを受賞し、芸能界入りされましたが、お母さまの友人の方に勧められてコンテストに応募したとのことで、ご自身としてはもともと芸能界を目標にしていたわけではなかったのでしょうか。

    興味はありましたが、全然現実的には考えてなかったです。漠然とした憧れというだけで、そこできっかけをいただいたから入ったという感じです。

    ――芸能界に飛び込んでから、俳優としてやっていくぞという覚悟が芽生えたのはいつ頃でしょうか?

    明確にここというのはなくて、気づいたらという感じです。でもドラマに出始めて、親が喜んでくれる姿を見て、僕の中で決心がついたと思います。

    ――『騎士竜戦隊リュウソウジャー』の頃でしょうか?

    そうだと思います。
    ○■俳優業は「一番は家族のためにやっている」

    ――作品を重ねられてきて、今の俳優業に対する思いをお聞かせください。

    向き合い方はもしかしたらしっかりしてきているのかなと思いますが、いい意味で今までと変わっていない気がします。一番は家族のためにやっていて、そこは変わっていないですし、たぶんこの先も変わらないと思います。自分のためにとなると、ここまで頑張れないと思うので。

    ――ご家族のためにというのは、活躍している姿を見て喜んでくれるから頑張ろうということでしょうか。

    そうです。最近だと、渋谷モディの大画面に僕が出ていて、友達と一緒にいたので撮ってもらって家族のLINEグループに写真を送ったら、家族がわざわざ見に行ってくれて1時間くらい渋谷に滞在していたみたいで(笑)。そのエピソードを聞いて改めて、頑張らないといけないなと思いました。

    ――「ジュノン・スーパーボーイコンテスト」を受ける前から、ご家族は綱さんに芸能界に入ってほしいという思いがあったのでしょうか。

    どうなんでしょう? 父親は自分が目立ちたい人間なので、いつも僕が表に出ていると、「いいな~お前」って言われます(笑)

    ○■「『君花』の前と後では、自信が明らかに違う」

    ――昨年放送された『君の花になる』ではボーイグループ・8LOOMのメンバーを演じられ、とても話題に。『君花』出演後の変化をお聞かせください。

    もちろん状況はガラリと変わりましたし、今まではもっと気楽にやっていた気がしますが、今はいい意味で「この仕事をしっかりやっていかないといけないな」「負けてられないな」といった欲求が目覚め、対抗心が芽生えるぐらい自分に自信もついてきたのかなと。『君花』の前と後では、自信が明らかに違うなと感じています。

    ――対抗心というのは、同じ世代の方たちに負けないように頑張ろうという気持ちでしょうか?

    そうですね。そういう思いが芽生え、本当に大事な作品になりました。家族もめちゃめちゃ喜んでくれましたし。

    ●『恋愛のすゝめ』はターニングポイントとなる作品に
    ――自信もついてきた中、連ドラ単独初主演を任されました。本作は俳優としてどんな経験になりそうですか?

    僕の中でターニングポイントとなる作品になると思っています。初座長をやってみて、座長の人の気持ちがわかったというのが一番大きくて、座長はこんなにいろんなものを抱えて、なのに皆さんあんなにさらっとした顔でやられていたんだなと。僕は今回いろんな人に助けられているので、今後、もちろん主演もいつかまたやれたらいいなと思いますが、支える立場で出ることが多いと思うので、その時にもっと主演の方を支えていけるような役者になれたらさらに成長できるのかなと思いました。

    ――主演として抱えているものというのは、プレッシャーとかでしょうか。

    そうですね。不安やプレッシャーが大きいです。本当に皆さんが支えてくださっていて、1人だったら乗り越えられていないと思います。

    ――主人公の鳳啓介は恋愛という難題に挑みますが、この役を演じていて恋愛観の変化や学びなどありますか?

    割と僕も鳳派というか、まっすぐに思いを伝えるタイプなので、学びというより、むしろ共感ですね。「わかるよ」と思いながら演じています。もちろん鳳は鳳にしかできないアプローチ方法があって、僕にはできないことがありますが、すごくかっこいいシーンがあるので楽しみにしていただきたいです。

    ○■東京国際映画祭に参加し芽生えた目標「アカデミー賞に立ちたい」

    ――今後の俳優人生はどういう風に思い描いていますか?

    最近、アカデミー賞に立ちたいという目標が芽生えました。この前、「東京国際映画祭」で初めてレッドカーペットを歩かせていただいたのですが、周りにいる方々もすごい方ばかりで、その中に立ってみてパワーを吸収したと同時に、アカデミー賞も立ちたいなと。今はそこを目標に。1つの通過点でしかないとは思いますが、立てたらいいなと思っています。

    ――最後に、この『恋愛のすゝめ』が放送されてからの反響として期待していることがありましたらお聞かせください。

    たくさんの方が見てくれたらいいなと。でも見てもらえたらわかると思うんです。僕もほかのキャストスタッフ陣も、全員がこの作品に対してすごく自信を持っていて、「見てくれたら絶対面白いと思ってもらえますよね!」と話していて、みんながこの作品にかけている思いや誇りに思っているのをすごく感じています。僕は番宣などで1人でも多くの方に広げていくという使命がありますが、この記事を読んだ方は全員見ていただきたいです!

    ■綱啓永
    1998年12月24日生まれ、千葉県出身。2017年、第30回ジュノン・スーパーボーイコンテストグランプリを受賞し、芸能界入り。2018年ドラマ『文学処女』で俳優デビュー2019年、特撮ドラマ騎士竜戦隊リュウソウジャー』でリュウソウブルー/メルト役を演じ注目を集める。2022年にはTBSドラマ『君の花になる』に出演し、劇中に登場するボーイグループ・8LOOMとして音楽活動も行った。2023年は、ドラマ『ひともんちゃくなら喜んで!』、『バツイチがモテるなんて聞いてません』、『明日、私は誰かのカノジョ シーズン2』、『ばらかもん』『ぼさにまる』などに出演。

    スタイリング:三宅剛 メイク:牧野裕大 衣装:ジャケットパンツ=ヴィクティム メガネ=ワンスリー コンパウンド フレーム
    (酒井青子)

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    画像提供:マイナビニュース


    (出典 news.nicovideo.jp)


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    「私はお父さんの子どもじゃないんだ」父・赤井英和とは14年間会えず…赤井沙希(36)が幼少期に抱いた“複雑な思い”〉から続く

     今月12日にプロレスラーを引退した、タレント赤井沙希さん(36)。彼女は、元プロボクサーで俳優の赤井英和さんを父に持つことで知られている。両親が幼い時に離婚し、父親の記憶がほとんどないまま育った赤井さんは、芸能界デビューをきっかけに父親と再会。その後、“赤井英和の娘”というレッテルに悩みながらも、芸能界とプロレス界で活躍してきた。

     そんな彼女が、自身の半生を綴った著書『強く、気高く、美しく 赤井沙希・自伝』(イースト・プレス)を上梓した。ここでは同書より一部を抜粋し、モデル時代のエピソードファースト写真集発売の経緯、父・赤井英和さんと14年ぶりに再会した際のエピソードを紹介する。(全2回の2回目/1回目から続く)

    ◆◆◆

    思いと行動の矛盾

     有名な雑誌だと『JJ』や『CanCam』の着回しコーデのモデルも経験しましたが、雑誌のモデルにしては身長が高すぎるのと、骨格が大きすぎるんですよね。 

     用意された靴が入らなくて、そういうときは滑りを良くするためにゴミ袋を履いてからブーツを履いていました。めちゃめちゃ痛いし、むくんでパンパン……。

     モデルとちゃんと言えるほど細くはなかったので、お洋服も無理やり着ていました。 

     そこまでプロ意識がなかったんだと思います。学校の帰り道で定食屋さんで唐揚げ定食を食べて、家に帰ってからも夕飯を食べたり。

     好きでモデルを始めたはずだし、せっかくチャンスももらえていたのに、それを絶対掴もうという考が至りませんでした。

    外見はずっとコンプレックスだった

    「もっと美人になろう」とか「太ってるからもっと痩せなきゃ」とか思っているくせに、いつもどおり唐揚げ定食を食べていて、矛盾しまくっていましたね。行動と考えが一致していなかったです。 

     外見はずっとコンプレックスだったし、そもそも自分の性格も好きではありませんでした。基本的に明るい性格ではないですからね。

     現場でモデル仲間とヘアメイクさん、スタイリストさんがタメ口で楽しそうに喋っていたりすると、疎外感を抱いていました。

    どれがいいとか悪いとかじゃなく、いろんな価値観がある

     海外ブランドショーに出演するために、中国にも行きました。わたしは頬骨が出ているのを気にしていたんですけど、アジア系のモデルさんは、エラが張って、頬骨が高くて、目が細いことを、むしろ武器にして活躍されていました。自分の価値観って小さかったなと思いましたが、自分の身近な人は「二重でまつ毛ぱっちりが可愛いよね」という考え方で。

     どれがいいとか悪いとかじゃなくて、いろんな価値観があることを学んだ時期でした。 

     余談ですけど、芸能界で活躍しているある方が海外のショーに出たとき、乳首が透けていたことがあったんです。透けている素材のお洋服なので、むしろニプレスを着けるほうがヘンなんですけど。なのに週刊誌が「透け乳首を激写!」みたいなことを書いていたんですよね。マスコミって嫌だなあと思った記憶があります。それこそ、いろんな価値観があるんだなって。

     そうやっていろんなことを吸収しながらも、「明日も唐揚げ定食を食べるぞ!」みたいなスタンスは変わりませんでしたね(笑)

    写真集の発売が決まるも……

     17歳のとき、所属していた事務所から「ちゃんとデビューしよう」と言われました。「え? いままでのはなんやったん?」と思いましたけど、当時は写真集を出すことが正式なデビューとされていたんですよね。

     グラビアではなくて、あくまでもモデルとしての作品撮りということで、綺麗な感じでした。タイトルは『Saki』。そのときは沙希という芸名だったんです。「世の中にわたしのことを知っている人なんていないのに、だれが買ってくれるんだろう?」と不安でいっぱいでしたが、やれるだけやってみようと思って、猛ダイエットしました。身長173cmくらいで58kgくらいあったんですけど、運動と食事制限で48kgまで落としました。

     写真集の発売がリリースされることになり、「頑張ったかいがあったな」と思っていたら、新聞の一面に「赤井英和の娘、デビュー」と書かれて……。

     当時は言わない約束だったのに、事務所リークしちゃったんですよね。「言わへんって言ってたやん」と憤った一方で、その写真がめっちゃ盛れていたんですよ。それはちょっと嬉しかったです。

    週刊誌の人が来たことも

     学校にもわたしが赤井英和の娘だということがバレて、また後ろ指をさされるようになりました。マスコミの人たちがうちに来て、「暴露本を出しませんか?」と言われたりもしました。

     父がバツイチだということを知らない人が多かったみたいで。待ち伏せされたりもしたし、家で留守番をしていたら、週刊誌の人が来て「お父さんの昔のことを教えてもらえますか?」と言われて、怖かったです。なんで嵐山のなんの変哲もないマンションに来るんだ? なんで知ってるの? 母の職場にも来たりして、そこでわたしたちがなにか言ったところで、だれも幸せにはならない。わたしハッピーになるわけでもないし、父も母も、いまの父の家族も、週刊誌を読む人だってべつにハッピーじゃないでしょと思いました。

    との再会、デビューの報告

     父にちゃんとデビューの報告をしたほうがいいんじゃないかということで、当時の事務所と、向こうサイド事務所がそういう場を設けてくれました。

     父にちゃんと会うのはサル山以来だったので、14年振りとか。母と姉と事務所の人も一緒に、京都から電車に乗って、大阪で会いました。

     会うということはわたしの話は聞いているんだろうけど、本当にわたしのことを覚えているのかなと不安でした。もちろん一緒に写っている写真もあるから知ってはいるんだろうけど、わたしのことをどう思っているんだろうとか。お父さんっていう人に会うってどんな感じだろうとか。もういろんなことを考えました。ホテルの部屋の扉を開けた瞬間、ライトがたくさんあって、明かりの中で父が立ち上がって、「おっきくなったなあ」と言われました。「あ、テレビのまんまの人や」と思いました。

     ハグされて、「これから十数年、空いていた溝を埋めていこうな」と言われて、泣くつもりなんかなかったのに、ワーッて泣いちゃって……。それはたぶん小さいとき、布団の中で泣いたりしていた自分を思い出して、あの小さい子が救われたというか、「もうあんな思いを、あの子はしなくていいんだ」と感じたんですよね。

     あのとき、わたしがなにを求めていたのか自分でもわからなかったけど、「わたしが欲しかった言葉をくれる人だな」と思いました。そっか、これって溝だったんだなと。かといってべつにまた家族4人で暮らすわけじゃないし、母と姉は複雑な思いを抱いていたみたいです。でもわたしは人前に出る立場で、いまはDDTだったり事務所だったり、いろんな“家族”がいる中で、父の立場もわからなくはないなと感じるようになりました。

    (赤井 沙希/Webオリジナル(外部転載))

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    赤井沙希さん ©文藝春秋


    (出典 news.nicovideo.jp)


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